人間が人間であること

 電車に乗るとまわりの多くの人が耳に刺しているのはイヤホン。ほとんどの人がスマホを覗き込んでいる。ゲームに熱中して指を動かしている人は一点を見つめ殺気立っている。誰もが自分の小型の箱に夢中で、まわりで何が起こっているのか気がつかず、世界から自分を遮断しているように見える。もし、誰かがすべての端末機器を通して、一斉に何か強力なメッセージを送ったとしたら、あるいは危険にさらされるような衝撃的なニュースを伝えたとしたら、人々は(私も含め)どのように反応するのだろうか。そう思わずにはいられない。そしてそれがフェイクであったとしたらと。

 私が小さい頃に、SF小説や漫画でよく描かれていた小型テレビ電話、空飛ぶ車、サイボーグなどの溢れる世界、そして大きな電子頭脳が人間を支配し消滅させようと戦争ばかりが続くという世界は現実になりつつある。もっと恐ろしいことになっている現実を直視させないようにと、巷には浪費と享楽の対象になるものが溢れかえっている。

 私たちはいつでもたくさんの情報を手にして、どこでも誰かと繋がっていられる。けれども孤独と孤立、分離は深まっているようにも思える。同調するもの同士は繋がりやすく、そうでないと批判し排除し攻撃する。寛容と忍耐は失われ、待てなくなった。手軽に何でも検索して調べ、何かに直面するとチャッピー先生に訊く。情報は得ても心には残らない。いまやAIの方が、カウンセラーより手軽で親身になってくれるし、生身の人とのやりとりで痛みを感じ傷つくことを避けたい。応答はすぐに欲しい。効率的で速いことが美徳。「間(ま)」を与えない。正解が求められ、迷うことも間違うことも恐ろしい。答えが簡単に出ないことは人生には山ほどある。なのに、一晩おいて考えよう、一呼吸してから応じよう、すぐに反応せず置いておこうということをさせない。ましてや答えが出ないまま抱え続けることは耐えられない。プロセスより結果、見えないものはないに等しい。そして世界は不安に満ちている。

 生活が便利になってありがたい機能も確かにたくさんあるが、その一方で人間的な能力は失われてはいないだろうか。自分で覚えることも考えることも、生きることまで任せているような気がする。人は生まれてきて、「人間になりゆく」。人の「間」と書いて人間。「人間」であるということはどういうことなのか。AIと人間は何が違うのか―。

 人間であることから人間を逸らしていく、そういう2つの力についてルドルフ・シュタイナーはたくさん語っている。ひとつは、人間を地上世界や感覚的現実的世界から切り離そうという力、非現実的世界に浮遊し、高みを自分のためにだけ目指そうという利己的な方向。そしてもうひとつは、人間の思考の産物、人間が作り出した物質世界、機械の世界のみがこの地上に残れば良いというあり方で、個の尊厳や精神性は無視して人間を機械の一部にしてしまう力。この2つの力は人間の魂を狙い我が物にしようとし、やがて人間の生きる力を奪う。

人類の代表者
 シュタイナーはこの対極にある2つの力とその間に立つ人間の彫刻群を残した。その対極の力を御しながら、真ん中で足を踏み出し動こうとしている人間像。両極の間で均衡をとり続ける、なおかつ中心は穏やかで平静を保つ。その間で揺れつつバランスを取る力、どちらかに傾いたとしても自分で中心に戻ってくる力、それらの源泉を私たちはどこから得ることができるのだろうか。健康であるということも、この玉乗りのような綱渡りのような、常にバランスを取っている状態である。

 ゆったりと間(ま)をとって呼吸する。自分の身体を感じながら、自分の呼吸や熱を感じながら今ここにいるという感覚に満たされる。自然に目を向け小さなことを愛で喜ぶ。自分の手足を使って時間をかけ、ゆっくりとプロセスを味わう。自分への信頼、まわりへの信頼。自分を適度に開くことと適度に閉じることの間を探す。個として存在する私は、あなたと繋がり、世界と繋がり、見えないけれどもかけがえのない「私」とも繋がっている。それらは皆、真実なのか?

 問い続けよう、人としてある限り。

樋原裕子
プロフィール
オイリュトミー療法士、バイオグラフィーワーカー。
現在主にシュタイナー学校やクリニックでオイリュトミー療法など子どもの支援を、バイオグラフィーワークジャパンの講師としてバイオグラフィーワークの養成コースを行っている。 
ドイツ・ミュンヘンのオイリュトミー学校でオイリュトミーを、スイス・ドルナッハの オイリュトミー療法士養成コースでオイリュトミー療法を学ぶ。


 ▶ひかりのつぼみ自由クリニック
 ▶バイオグラフィーワーク・ジャパン 

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